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チーム紹介

チーム紹介

 早稲田大学水泳部は1905(明治38)年に創部。2015(平成27)年が創部110周年になります。「競泳部門」「水球部門」「飛込部門」「シンクロ部門」の4部門からなっています。

 早稲田大学所沢キャンパスのアクアアリーナを練習拠点とし、日々練習に取り組んでいます。


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                         所沢キャンパス内「アクアアリーナ」


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所沢キャンパス内「トレーニングルーム」



 男子は所沢キャンパス近くの合宿所「稲泳寮」で共同生活し、チームワークを高めています。女子は自宅、アパート、運動部女子寮といろいろです。



競泳部門

 早稲田大学水泳部競泳部門は、最大の目標とする日本学生選手権の団体優勝をはじめ、日本選手権や早慶戦、東京六大学などで勝つために練習に取り組んでいます。同時に、世界で戦う選手をチームから一人でも多く輩出することを目指しています。

 我々のチームはこれまでも国際大会代表選手を数多く輩出しており、現在もオリンピックや世界選手権、ユニバーシアード大会などの日本代表を狙う選手が共に練習しています。



水球部門

 水球部門は男子10名、女子11名、マネージャー2名で活動しています。昨年度は男子が4位、女子が準優勝を致しました。

 「選手主体」をテーマに、泳いでチャンスを作って得点に結びつける「早稲田水球」の精度を上げるべく、選手が中心となり練習し、自覚を持った行動を心がけています。

 本年度は男女共に優勝を目指し、日々練習に励んでいます。



シンクロ部門

 シンクロ部門は2013年に発足しました。その年に日本学生選手権マーメイドカップに5人で出場し、初出場にして初優勝を飾りました。

 普段はそれぞれ自分の所属クラブで練習し、大会に出場しているので、マーメイドカップが早稲田生として出られる唯一の試合です。いつもと違うメンバーで早稲田を背負って出る試合は新鮮で、また違う楽しさを味わうとこができます。

 現在部員は2人ととても少なく、シンクロ経験者の入部を心よりお待ちしています。



飛込部門

 飛び込み部門は本年度11年ぶりに男子1名、女子1名が入部し、再スタート致しました。

 男子部員、女子部員ともに実力者であり、2人という少ない人数ではありますが、日々熱心に練習に取り組んでいます。

 早稲田飛込部門の栄光を取り戻すべく、まだまだ部員の数は必要です。飛込経験者の方の入部を心よりお待ちしております。

 飛込部門完全復活を目指し、皆様のご支援ご協力を宜しくお願い致します。




水泳部役員

部長 恩藏 直人(おんぞう・なおと)

早稲田大学理事

商学学術院教授



総監督 奥野 景介(おくの・けいすけ)

スポーツ科学学術院教授



主将・競泳主将 井上  奨真(いのうえ・しょうま)

スポーツ科学部4年

岐阜県立岐阜商業高等学校



主務 森本  健太(もりもと・けんた)

スポーツ科学部3年

早稲田大学系属早稲田実業学校高等部



水球主将 吉村  崇(よしむら・しゅう)

スポーツ科学部4年

大分県立大分商業高等学校



シンクロナイズドスイミング主将 吉野 倫加(よしの・みちか)

スポーツ科学部3年

武南高等学校



競泳女子主将 伊藤  愛実(いとう・めぐみ)

スポーツ科学部4年

早稲田大学系属早稲田実業学校高等部



水球女子主将 松岡  美有(まつおか・みゆう)

スポーツ科学部4年

秀明英光高等学校







早稲田大学水泳部の歴史


黎 明 期

1905年、前身である「游泳部」誕生

 水泳部が早稲田大学から正式の部として認められたのは1910(明治43)年。野球、庭球、漕艇、剣道、柔道、弓道に次いで7番目であった。

 これよりも5年早い1905(明治38)年7月1日、神奈川県逗子海岸の農家を借り、「早稲田大学游泳部」の看板をかかげて活動を開始。水泳部では、この年を「創部」としている。

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 当時は海での遠泳が中心で、早稲田より2年早い1903(明治36)年に葉山で活動を開始した慶応なども同じであった。



第2回インカレから「黄金時代」に

 次第に競技志向が強くなり、1921(大正10)年、横浜・三笠園の池で、早稲田、明治、慶応、一高、東京師範、東京薬専、立教、拓大、東大農学部、長崎高商、東京高工の11校が参加して第1回全国各大学対抗競泳大会(インターカレッジ)が開かれた。

 優勝したのは明治で16点。早稲田は10点で2位に甘んじた。しかし翌年には優勝を果たし、その後6連覇。さらに1年おいて再び6連覇と、圧倒的な強さを示した。結局、第二次世界大戦前までに行われた21回のインカレ競泳で、早稲田は16回の優勝(明治、日大が各2回、慶応が1回)を果たしている。



オリンピックでも先駆者に

 日本の水泳のオリンピック参加2回目となる1924年(大正13)年のパリ大会では、高石勝男が100m自由形と1500m自由形の2種目で5位と、日本水泳界に初めての入賞を記録した。Image title

 後に高石は日本水泳連盟の会長となり、強化、組織両面で現在の連盟の基盤を築く手腕を発揮。また、早稲田大学では、戸山キャンパス内に「高石記念プール」を造設し、高石の業績を顕彰している。

 忘れてはならないもう一人に牧野正蔵がいる。1932(昭和7)年のロサンゼルス大会1500m自由形で2位、1936(昭和11)年のベルリン大会では400m自由形で3位。金メダルは逃したが、「ジャパニーズ・クロール」と称された典型的なスイマーで、5つの世界新記録を樹立している。



水球草創期をリード

 水球競技では1925(大正15)年に第1回全日本選手権が開催され、東京ウォーターポロ倶楽部が優勝。翌1926年に早稲田大学として初優勝を飾った。さらに1931(昭和6)年から34年まで4連覇を記録した。

 学生水球でも1930(昭和5)年春の第1回関東学生リーグ戦を全勝で制覇した後、1937(昭和12)年までの約8年間、秋のインターカレッジリーグを含めて13シーズン連続優勝している。

 日本の水球が初めて出場した1932(昭和7)年のロサンゼルス・オリンピックには、コーチ兼主将の藤田明をはじめ、代表9人のうち6人が早稲田関係者だった。続く1936(昭和11)年のベルリン・オリンピックでも、11人中8人を早稲田から送っている。

 藤田は戦後、日本水泳連盟会長をはじめ、日本体育協会、日本オリンピック委員会などで要職に就き、1980(昭和55)年に起きたモスクワ・オリンピックのボイコット問題の際には「出場すべきである」と主張。生涯、「アマチュアスポーツ精神」を貫いた。



飛び込みで光る小柳の活躍

 飛び込み競技は、昭和の初めに柴田隆司、高橋庄之助、小林光四郎らの活躍で発展し、小柳富男の登場で頂点を迎える。小柳は1936(昭和11)年のベルリン・オリンピックに飛び込み初の代表に選ばれて出場。板、高とも8位だった。

 38(昭和13)年のインターカレッジ飛板で優勝。翌年には高飛で日本選手権、日本学生選手権の両タイトルを獲得した。選手としての輝かしい実績だけではなく、小柳は指導者としても多くの選手を育成し、日本の飛び込み界に大きな足跡を残している。



組織運営でも尽力

 競技面だけにはとどまらない。インターカレッジ実施の翌22(大正11)年9月に全国学生水上競技連盟を結成。24(大正13)年の大日本水上競技連盟創立につながった。早稲田は、その中心メンバーとして、清水吉之助、小高加茂らが参画している。

 ここに西本龍三が登場する。24(大正13)年に水泳の大学同士の対抗戦では最初となる関西学院大学との定期戦(早関戦)を設立。次いで27(昭和2)年には芝公園プールで早慶対抗水上競技大会の開催にもこぎつけた。

 さらに西本は、日本の水泳界をよりダイナミックに活動させるため、強化面で高石勝男、運営面で奥野良と、後年、日本水泳連盟の会長を務めたふたりを車の両輪として駆使した。





興 隆 期

水泳復活。世界にのろし

 戦後、水泳競技会の幕開けは46(昭和21)年7月、早大東伏見プールで開かれた早慶対抗だった。前触れもなく当時中学1年生の皇太子さま(現・今上陛下)が観戦においでになられた。秋には日本学生選手権が復活。3年間の空白を経て、日大に8点差で勝ち17度目の優勝を果たした。

 49(昭和24)年の全米屋外男子選手権に、主将として稲泳会の村山修一、日大の古橋廣之進、橋爪四郎、浜口喜博、丸山茂幸、そして早大学院の田中純夫の自由形6選手が出場した。1500m自由形で古橋が18分19秒0 の驚異的な世界新記録をマークするなど、計9つの世界新記録を作り、敗戦で打ちひしがれていた日本国民に希望と勇気を与えた。Image title

インカレ5連覇。「世界記録に挑む会」も

 51(昭和26)年のインカレで5年ぶり18回目の優勝。55(昭和30)年まで5連覇を達成。この間、54(昭和29)年には「世界記録に挑む会」を開き、長沢二郎が200mバタフライ、田中守が200m平泳ぎ、400mメドレーリレーで三つの世界新記録を作った。

 56年にはメルボルン・オリンピックが開かれ、日大勢が活躍。200m平泳ぎで古川勝、吉村昌弘が金、銀メダル、200mバタフライで石本隆が銀メダルを獲得した。稲泳会からは自由形の谷あつし、古賀学、背泳ぎの長谷、飛び込みの馬場豊が出場した。

 このオリンピックで石川県輪島高3年生、翌年早大に進む山中毅が400m、1500mともローズ(豪)と大接戦を演じて銀メダルを獲得。両種目とも山中は古橋の持つ日本記録を大幅に更新した。Image title


東京オリンピック期

スポーツ界初の中国遠征敢行

 1957(昭和32)年、水泳部は安井俊雄部長を団長に、吉本弘監督のもと、谷●、横地森太郎、古賀学、上本正義、山中、長谷景治、太田勝、坂井逸次の8選手が戦後、日本と中国の初めてのスポーツ交流となる中国遠征を実施。北京、天津、上海、広州を転戦したが、北京大会には、当時の周恩来首相も姿を見せ、選手全員と握手するなど、まさに熱烈歓迎となった。

 60(昭和35)年のローマ・オリンピックには競泳の山中、大崎、吉無田春男、井筒賢造、水球の加藤峰男が参加。山中は400m2位、1500m4位。大崎も2位で、ともに金を逸した。



競泳インカレ史上最高の勝利

 1964(昭和39)の東京オリンピックには、稲泳会から山中、岡部幸明、吉無田、岩崎邦宏、松本健次郎、伊藤圭佑、藤島祥三と競泳7人、水球に加藤、皐月啓左、竹内和也の3人、飛び込みの土佐忠雄の、計11人が出場した。

 競泳は若手選手を揃えた米国が圧倒的な強さを見せ、18種目中13種目で優勝。に対する日本勢の不振はひどく、最終日の800mリレーで辛うじて3位に入った銅メダル1個に終わった。

 インカレでは、61(昭和36)年に、中川清、大崎の平泳ぎコンビが100m、200mで1、2位を占めたほか、200mバタフライで吉無田が優勝。水球の竹内が100m自由形で2位になるなど、着実に得点を重ね、23回目の優勝を果たすとともに、日大の連勝を「5」でストップした。

 65(昭和40)年のインカレ競泳は、早大史上最強ともいえる陣容で臨んだ。自由形4種目すべて制覇するなど、個人11種目中8種目で優勝、リレーも3種目に勝ち、総合得点は史上最多の156点。2位以下の全大学の合計点より多かった。

 66(昭和41)年は最終レースの800mリレーで日大を振り切り、105-104の1点差の大逆転で6連覇、28回目の優勝を飾った。Image title


水球第二期黄金時代

 水球は、1946(昭和21)年の戦後最初の日本選手権で優勝。その後、低迷が続いたが、東京オリンピックが近づき、次第に順位が上がっていく。

 62(昭和37)年に日本学生選手権を初制覇。64(昭和39)年、66(昭和41)年、69(昭和44)年に学生日本一を獲得した。早大水球にインカレ優勝が4回しかないのは、水球が学生選手権で正式採用されたのが戦後の1950(昭和25)年からであることが大きい。Image title

 戦前の日本選手権で5勝している稲泳会は、1960年代に入って再び黄金時代を迎えた。63(昭和38)年を皮切りに、65、66、68、69年と7年間で5勝をマークしている。



土佐、飛び込みで空前の学生7冠

 インターカレッジ団体で5回優勝している早稲田飛び込みも、この時代は輝いている。土佐忠雄が61(昭和36)年に板飛込みで優勝すると、62(昭和37)年から64(昭和39)年までの3年間、2種目を完全制覇。空前の学生7冠王となった。63(昭和38)年にはインターカレッジで5度目の総合優勝も果たしている。Image title

 土佐の後も早稲田飛込みは引き継がれ、65(昭和40)年に坂手昭治、66(昭和41)年に前川剛三がそれぞれ飛び板で日本学生選手権を制した。この結果、61(昭和36)年から66(昭和41)年までの6年間、早大は板飛びで6連勝を達成。今もこの記録は残っている。





メキシコ~モスクワ期

苦難の時代が続く

 東京オリンピックをピークに、入学難という要因も重なり、競泳、水球、飛び込みの3部門とも戦力ダウンを強いられ、徐々に下降線をたどっていく。

 68(昭和43)年のメキシコ・オリンピックには、岩崎邦宏、中野悟、田中毅司雄、高田康雄の競泳4選手と、水球に竹内和也、石井哲之介、佐藤晴雄のOB3人が出場。しかし、日本チームは苦戦。競泳ではついに「メダル0」と、東京大会からさらに後退した。

 続く72(昭和47)年のミュンヘン・オリンピックでは、水球に地平達郎、保見吉裕のOBを送り、なんとかオリンピックの「連続出場」は守ったものの、競泳はゼロ。1924(大正13)年のパリ大会以来続いていた記録が途絶えた。

 76(昭和51)年のモントリオール・オリンピックには、早稲田からは柳舘毅と原秀章が出場し、100mバタフライで原が個人でただひとり決勝に進み7位。400mメドレーリレーでは柳舘が自由形を泳ぎ、ふたりで決勝に進出した。Image title

 続く80(昭和55)年のモスクワ大会は、ソ連のアフガニスタン侵攻による「オリンピック・ボイコット」で日本も不参加となった。



特筆ものの3選手

 1966(昭和41)年の日本学生選手権最終日。早稲田は最後の800mリレーで日大を振り切り、105-104の1点差で「天皇杯」を獲得した。しかし、この優勝が昭和年代の最後となった。

 こんな厳しい状況を救ったのが、75(昭和50)年に広島・尾道高から同期入学した柳舘毅と原秀章、翌76(昭和51)年入学の樺谷博の3人だ。総合優勝こそならなかったが、原が4年生のときの200mに勝てなかった以外、3人は1年生から4年間、それぞれ個人メドレー、バタフライ、平泳ぎの個人2種目をすべて制覇、400mメドレーリレー4連勝に貢献した。Image title




69年に水球が2冠獲得

 水球は、安田義則主将の1969(昭和44)年に、インターカレッジ優勝。OBも加わった稲泳会で日本選手権と、両タイトルを制覇している。インカレ優勝は、残念ながら、これ以降記録されていない。

 飛び込みでは79(昭和54)年に乾敏章が飛び板で、66(昭和41)年の前川剛三以来13年ぶりの学生王者となった。





ロサンゼルス~シドニー期

久々のオリンピック入賞と女子の台頭

 1984(昭和59)年のロサンゼルス・オリンピックに参加したのは奥野景介ひとり。続く88(昭和63)年のソウル・オリンピックには武田聡、渡辺健司が出場したが、いずれも決勝には進めなかった。

 92(平成4)年のバルセロナ・オリンピックには、OBの渡辺をはじめ、藤本隆宏、糸井統、中野勉、ベルギー代表としてバンデワーレ泰広と、久々に5人が出場。200m背泳ぎで糸井が4位に食い込む健闘を見せた。

 このバルセロナ大会から、早稲田競泳に新しい波が押し寄せる。後に早稲田に進学する漢人陽子、粕谷恭子、稲田法子が出場。さらに96(平成8)年のアトランタ・オリンピックに黒鳥文絵、2000(平成12)年のシドニー・オリンピックに稲田、三田真希と、女子選手が相次いで世界の舞台に飛び出した。



競泳で23年ぶり29回目のインカレ優勝

 1981(昭和56)年の日本学生選手権では小林聡が200m個人メドレーで優勝したものの、史上初めてシード校(上位6校)落ち。83(昭和58)年には、早慶戦で45年ぶり2度目の敗戦という屈辱も経験することになる。

 しかし、平成に年号が改められた89年、ついに23年ぶり29回目の栄冠を勝ち取った。末次勝主将のもと、2日目までのビハインドをひっくり返しての天皇杯獲得。続く90(平成2)年も劣勢を跳ね返して連勝。1年おいて92(平成4)年にも、藤本の4年連続200m、400m個人メドレー制覇やバンデワーレ主将の活躍などで31回目の優勝を遂げた。Image title

 しかし、その後は次第にチーム力が低下し、年を追うごとに成績を落としていくことになる。対照的に頭角を現してきたのが女子。初の団体出場となった95(平成7)年に4人で3位。翌年は2位と、あと1歩と迫った。2004(平成16)年には女子選手18人となり「初優勝」の夢が広がったが、日体大の前に涙をのんだ。



水球で31年ぶり12回目の日本一

 長く低迷が続いていた水球も1990年代からチーム力がアップし、99(平成11)年に日本選手権の決勝に進出。7-10で日体大に敗れたが、翌2000(平成12)年には決勝で仙台大を9-3の大差で下し、31年ぶり、12回目の「日本一」の座についた。Image title

 その後、05(平成17)年には東日本水球リーグで5年ぶり3度目の優勝を果たすなど、上位での活躍が続いている。

 飛び込みも、2000年代に入って、女子の大槻枝美、山下美佐子の入学で活気を取り戻し、大槻が2001(平成13)年の世界選手権シンクロダイビングで3位。山下は04(平成16)年、05(平成17)年のインカレで板飛び、高飛び両種目を連覇するなど、こちらも女子の活躍が目立った。





アテネ~

国際大会で久々のメダル獲得

 2004(平成16)年のアテネ・オリンピックに田淵晋、稲田法子のOB2人が出場。08(平成20)年の北京オリンピックでは、OBの藤井拓郎がバタフライを泳いだ400mメドレーで銅メダルを獲得。藤井は続く12(平成24)年のロンドン・オリンピックの同種目でも自由形を泳いで、今度は銀メダルを獲得した。

 このロンドン大会では、星奈津美が200mバタフライで早稲田大学の女子選手としては史上初めて銅メダルに輝いた。

 2013年の世界選手権(バルセロナ)では、1年生の瀬戸大也が400m個人メドレーで早大として初の金メダルを獲得した。



競泳男女でやや苦戦

 インターカレッジ競泳では、女子が2004(平成16)年、05(平成17)年に2位になったが、その後は上位に入れず、2014(平成26)年には11位と苦しい戦いが続く。男子は2008(平成20)年に3位になったものの、念願の優勝には届かない。以降もコマ不足は否めず、2014(平成26)年には個人3種目と400mメドレーリレーの4種目で優勝したものの、総合6位にとどまった。



女子水球結成5年でインカレ決勝に

 上位をキープしている水球は、2011(平成23)年から4年連続してインターカレッジ決勝に進むが、日体大の厚い壁を打ち破れず、2位が続く。2009(平成21)年にチームが結成された水球女子は、5年目の13(平成25)年にインカレ決勝に進出。日体大に7-16と大敗したが、翌14(平成26)年には6-7と、あと一歩までに迫った。





歴代役員


部長

中村 進午 1910(明治43)年~1922(大正11)年

五來 欣造 1922(大正11)年~1944(昭和19)年

斎藤 金作 1944(昭和19)年~1951(昭和26)年

赤松 保羅 1951(昭和26)年~1957(昭和32)年

安井 俊雄 1957(昭和32)年~1963(昭和38)年

大滝  武 1963(昭和38)年~1973(昭和48)年

山岡喜久男 1973(昭和48)年~1984(昭和59)年

片岡 寛光 1984(昭和59)年~1993(平成5)年

渡邉 重範 1993(平成5)年~2012(平成24年)

恩藏 直人 2012(平成24)年~




総監督

志村 義久 1951(昭和26)年~1956(昭和31)年

吉本  弘 1956(昭和31)年~1958(昭和33)年

小野 四郎 1958(昭和33)年~1965(昭和40)年

藤岡 達昂 1965(昭和40)年~1969(昭和44)年

清光 雄二 1969(昭和44)年~1975(昭和50)年

長沢 二郎 1975(昭和50)年~1980(昭和55)年

細川 伸也 1980(昭和55)年~1983(昭和58)年

長谷 景冶 1983(昭和58)年~1988(昭和63)年

梅本 利三 1988(昭和63)年~1992(平成4)年

上本 正義 1992(平成4)年~1995(平成7)年

杉本 紘一 1995(平成7)年~1998(平成10)年

地平 達郎 1998(平成10)年~2009(平成21)年

奥野 景介 2009(平成21)年~



稲泳会会長

西本 龍三 1947(昭和22)年~1951(昭和26)年

藤田  明 1951(昭和26)年~1964(昭和39)年

友田  信 1964(昭和39)年~1984(昭和59)年

村山 修一 1984(昭和59)年~1992(平成4)年

待鳥 啓三 1992(平成4)年~1998(平成10)年

長沢 二郎 1998(平成10)年~2002(平成14)年

梅本 利三 2002(平成14)年~2011(平成23)年

有働  徹 2011(平成23)年~




アクセス
横浜国際プール
神奈川県横浜市都筑区北山田7−3−1
成蹊大学南プール
東京都武蔵野市吉祥寺北町3丁目3−3−1
大宮公園水泳競技場
埼玉県さいたま市大宮区高鼻町4丁目
慶應義塾大学 日吉プール
神奈川県横浜市港北区日吉4-1-1 慶應義塾日吉キャンパス協生館
筑波大学屋内プール
茨城県つくば市天久保3-1-1
青木町公園水泳場
埼玉県川口市西青木4−8
静岡県立水泳場
静岡県静岡市葵区西ヶ谷357-2
相模原市立総合水泳場
神奈川県相模原市中央区横山5丁目11−1
東京辰巳国際水泳場
東京都江東区辰巳2−8−10
秀明大学 八千代プール
千葉県八千代市大学町1-1
専修大学 生田プール
神奈川県川崎市多摩区東三田2-1-1