1905年、前身である「游泳部」誕生
水泳部が早稲田大学から正式の部として認められたのは1910(明治43)年。野球、庭球、漕艇、剣道、柔道、弓道に次いで7番目であった。
これよりも5年早い1905(明治38)年7月1日、神奈川県逗子海岸の農家を借り、「早稲田大学游泳部」の看板をかかげて活動を開始。水泳部では、この年を「創部」としている。
当時は海での遠泳が中心で、早稲田より2年早い1903(明治36)年に葉山で活動を開始した慶応なども同じであった。
第2回インカレから「黄金時代」に
次第に競技志向が強くなり、1921(大正10)年、横浜・三笠園の池で、早稲田、明治、慶応、一高、東京師範、東京薬専、立教、拓大、東大農学部、長崎高商、東京高工の11校が参加して第1回全国各大学対抗競泳大会(インターカレッジ)が開かれた。
優勝したのは明治で16点。早稲田は10点で2位に甘んじた。しかし翌年には優勝を果たし、その後6連覇。さらに1年おいて再び6連覇と、圧倒的な強さを示した。結局、第二次世界大戦前までに行われた21回のインカレ競泳で、早稲田は16回の優勝(明治、日大が各2回、慶応が1回)を果たしている。
オリンピックでも先駆者に
日本の水泳のオリンピック参加2回目となる1924年(大正13)年のパリ大会では、高石勝男が100m自由形と1500m自由形の2種目で5位と、日本水泳界に初めての入賞を記録した。
後に高石は日本水泳連盟の会長となり、強化、組織両面で現在の連盟の基盤を築く手腕を発揮。また、早稲田大学では、戸山キャンパス内に「高石記念プール」を造設し、高石の業績を顕彰している。
忘れてはならないもう一人に牧野正蔵がいる。1932(昭和7)年のロサンゼルス大会1500m自由形で2位、1936(昭和11)年のベルリン大会では400m自由形で3位。金メダルは逃したが、「ジャパニーズ・クロール」と称された典型的なスイマーで、5つの世界新記録を樹立している。
水球草創期をリード
水球競技では1925(大正15)年に第1回全日本選手権が開催され、東京ウォーターポロ倶楽部が優勝。翌1926年に早稲田大学として初優勝を飾った。さらに1931(昭和6)年から34年まで4連覇を記録した。
学生水球でも1930(昭和5)年春の第1回関東学生リーグ戦を全勝で制覇した後、1937(昭和12)年までの約8年間、秋のインターカレッジリーグを含めて13シーズン連続優勝している。
日本の水球が初めて出場した1932(昭和7)年のロサンゼルス・オリンピックには、コーチ兼主将の藤田明をはじめ、代表9人のうち6人が早稲田関係者だった。続く1936(昭和11)年のベルリン・オリンピックでも、11人中8人を早稲田から送っている。
藤田は戦後、日本水泳連盟会長をはじめ、日本体育協会、日本オリンピック委員会などで要職に就き、1980(昭和55)年に起きたモスクワ・オリンピックのボイコット問題の際には「出場すべきである」と主張。生涯、「アマチュアスポーツ精神」を貫いた。
飛び込みで光る小柳の活躍
飛び込み競技は、昭和の初めに柴田隆司、高橋庄之助、小林光四郎らの活躍で発展し、小柳富男の登場で頂点を迎える。小柳は1936(昭和11)年のベルリン・オリンピックに飛び込み初の代表に選ばれて出場。板、高とも8位だった。
38(昭和13)年のインターカレッジ飛板で優勝。翌年には高飛で日本選手権、日本学生選手権の両タイトルを獲得した。選手としての輝かしい実績だけではなく、小柳は指導者としても多くの選手を育成し、日本の飛び込み界に大きな足跡を残している。
組織運営でも尽力
競技面だけにはとどまらない。インターカレッジ実施の翌22(大正11)年9月に全国学生水上競技連盟を結成。24(大正13)年の大日本水上競技連盟創立につながった。早稲田は、その中心メンバーとして、清水吉之助、小高加茂らが参画している。
ここに西本龍三が登場する。24(大正13)年に水泳の大学同士の対抗戦では最初となる関西学院大学との定期戦(早関戦)を設立。次いで27(昭和2)年には芝公園プールで早慶対抗水上競技大会の開催にもこぎつけた。
さらに西本は、日本の水泳界をよりダイナミックに活動させるため、強化面で高石勝男、運営面で奥野良と、後年、日本水泳連盟の会長を務めたふたりを車の両輪として駆使した。