チーム紹介

メキシコ~モスクワ期

苦難の時代が続く

 東京オリンピックをピークに、入学難という要因も重なり、競泳、水球、飛び込みの3部門とも戦力ダウンを強いられ、徐々に下降線をたどっていく。

 68(昭和43)年のメキシコ・オリンピックには、岩崎邦宏、中野悟、田中毅司雄、高田康雄の競泳4選手と、水球に竹内和也、石井哲之介、佐藤晴雄のOB3人が出場。しかし、日本チームは苦戦。競泳ではついに「メダル0」と、東京大会からさらに後退した。

 続く72(昭和47)年のミュンヘン・オリンピックでは、水球に地平達郎、保見吉裕のOBを送り、なんとかオリンピックの「連続出場」は守ったものの、競泳はゼロ。1924(大正13)年のパリ大会以来続いていた記録が途絶えた。

 76(昭和51)年のモントリオール・オリンピックには、早稲田からは柳舘毅と原秀章が出場し、100mバタフライで原が個人でただひとり決勝に進み7位。400mメドレーリレーでは柳舘が自由形を泳ぎ、ふたりで決勝に進出した。Image title

 続く80(昭和55)年のモスクワ大会は、ソ連のアフガニスタン侵攻による「オリンピック・ボイコット」で日本も不参加となった。



特筆ものの3選手

 1966(昭和41)年の日本学生選手権最終日。早稲田は最後の800mリレーで日大を振り切り、105-104の1点差で「天皇杯」を獲得した。しかし、この優勝が昭和年代の最後となった。

 こんな厳しい状況を救ったのが、75(昭和50)年に広島・尾道高から同期入学した柳舘毅と原秀章、翌76(昭和51)年入学の樺谷博の3人だ。総合優勝こそならなかったが、原が4年生のときの200mに勝てなかった以外、3人は1年生から4年間、それぞれ個人メドレー、バタフライ、平泳ぎの個人2種目をすべて制覇、400mメドレーリレー4連勝に貢献した。Image title




69年に水球が2冠獲得

 水球は、安田義則主将の1969(昭和44)年に、インターカレッジ優勝。OBも加わった稲泳会で日本選手権と、両タイトルを制覇している。インカレ優勝は、残念ながら、これ以降記録されていない。

 飛び込みでは79(昭和54)年に乾敏章が飛び板で、66(昭和41)年の前川剛三以来13年ぶりの学生王者となった。