チーム紹介

東京オリンピック期

スポーツ界初の中国遠征敢行

 1957(昭和32)年、水泳部は安井俊雄部長を団長に、吉本弘監督のもと、谷●、横地森太郎、古賀学、上本正義、山中、長谷景治、太田勝、坂井逸次の8選手が戦後、日本と中国の初めてのスポーツ交流となる中国遠征を実施。北京、天津、上海、広州を転戦したが、北京大会には、当時の周恩来首相も姿を見せ、選手全員と握手するなど、まさに熱烈歓迎となった。

 60(昭和35)年のローマ・オリンピックには競泳の山中、大崎、吉無田春男、井筒賢造、水球の加藤峰男が参加。山中は400m2位、1500m4位。大崎も2位で、ともに金を逸した。



競泳インカレ史上最高の勝利

 1964(昭和39)の東京オリンピックには、稲泳会から山中、岡部幸明、吉無田、岩崎邦宏、松本健次郎、伊藤圭佑、藤島祥三と競泳7人、水球に加藤、皐月啓左、竹内和也の3人、飛び込みの土佐忠雄の、計11人が出場した。

 競泳は若手選手を揃えた米国が圧倒的な強さを見せ、18種目中13種目で優勝。に対する日本勢の不振はひどく、最終日の800mリレーで辛うじて3位に入った銅メダル1個に終わった。

 インカレでは、61(昭和36)年に、中川清、大崎の平泳ぎコンビが100m、200mで1、2位を占めたほか、200mバタフライで吉無田が優勝。水球の竹内が100m自由形で2位になるなど、着実に得点を重ね、23回目の優勝を果たすとともに、日大の連勝を「5」でストップした。

 65(昭和40)年のインカレ競泳は、早大史上最強ともいえる陣容で臨んだ。自由形4種目すべて制覇するなど、個人11種目中8種目で優勝、リレーも3種目に勝ち、総合得点は史上最多の156点。2位以下の全大学の合計点より多かった。

 66(昭和41)年は最終レースの800mリレーで日大を振り切り、105-104の1点差の大逆転で6連覇、28回目の優勝を飾った。Image title


水球第二期黄金時代

 水球は、1946(昭和21)年の戦後最初の日本選手権で優勝。その後、低迷が続いたが、東京オリンピックが近づき、次第に順位が上がっていく。

 62(昭和37)年に日本学生選手権を初制覇。64(昭和39)年、66(昭和41)年、69(昭和44)年に学生日本一を獲得した。早大水球にインカレ優勝が4回しかないのは、水球が学生選手権で正式採用されたのが戦後の1950(昭和25)年からであることが大きい。Image title

 戦前の日本選手権で5勝している稲泳会は、1960年代に入って再び黄金時代を迎えた。63(昭和38)年を皮切りに、65、66、68、69年と7年間で5勝をマークしている。



土佐、飛び込みで空前の学生7冠

 インターカレッジ団体で5回優勝している早稲田飛び込みも、この時代は輝いている。土佐忠雄が61(昭和36)年に板飛込みで優勝すると、62(昭和37)年から64(昭和39)年までの3年間、2種目を完全制覇。空前の学生7冠王となった。63(昭和38)年にはインターカレッジで5度目の総合優勝も果たしている。Image title

 土佐の後も早稲田飛込みは引き継がれ、65(昭和40)年に坂手昭治、66(昭和41)年に前川剛三がそれぞれ飛び板で日本学生選手権を制した。この結果、61(昭和36)年から66(昭和41)年までの6年間、早大は板飛びで6連勝を達成。今もこの記録は残っている。